1. 旅館の発祥と「おもてなし」文化

旅人の心身を癒すために存在する宿泊業とホスピタリティが深い関係にあることは言うまでもない。宿泊業におけるホスピタリティのレベルは、その国のホスピタリティそのもののバロメーターでもあり、昨今では製造業の企業が高級ホテルから講師を呼び寄せてホスピタリティ研修を行なうなど、常に他業界からも注目されるホスピタリティの現場であると言える。

日本古来の宿泊業と言えば旅館であるが、これの発祥は平安時代にまでさかのぼる。律令制下の当時、庶民には租庸調と言われる税が課せられていたが、これの納税は自力で都に登って行なっていたので、当然彼らには旅程が発生した。旅程における食料調達も自力であったから、旅の途上で命を落とす者も少なくなく、これの対策として寺院が中心となり作ったのが「布施屋」と呼ばれる旅館の前身であった。

布施屋では旅人が宿泊し、食事をとることができ、また病気やけがの手当てもされていたというから、西洋において人々を救済する役割を担っていた教会が後に病院やホテルに発展していったことと同じような背景を日本の旅館も持っていると言える。

一方で平安時代、貴族たちの間では寺社参詣を目的とする旅行も行なわれ始め、彼らの宿泊先としては「宿坊」があった。宿坊は本来、僧侶が宿泊する場所であるが、貴族たちの宿泊施設としても使用され、旅の宿としての「もてなし」が求められたと考えられる。

日本の旅館文化が大いに花開くのは江戸時代である。長きに渡った戦国時代が終了し、「お伊勢参り」などを筆頭として参詣目的の旅行を庶民も行なうようになり、各街道沿いには宿場町が整備され「旅籠」と言われる宿が数多くできた。

一方で、当時の重要な政治行事であった参勤交代において、諸大名が自国と江戸を往復する際に宿泊したのが「本陣」である。本陣は各宿場町における有力者の邸宅などがその役割を果たしており、諸大名のほか、幕府の上使や公家などが泊る場所としても使われた。現代でもこの本陣の流れを汲む高級老舗旅館が各地には残っている。

高級旅館におけるホスピタリティは、中居がそれぞれ担当となった部屋の客に対して合わせたこまやかな心遣いによって成立しており、旅館全体のオペレーションも重要だが、それに従事するスタッフの経験値もホスピタリティの精度を大きく左右している。従って、高いホスピタリティを保つにはベテランの中居から若手へとノウハウの継承が不可欠と言える。

2. 外資系ホテルが先行したホスピタリティの体系化

我が国最初のホテルは1860年にオランダ船籍ナッソウ号元船長のC.J.フフナーゲルが横浜の山下町に建てた「横浜ホテル」であった。しかし横浜ホテルについては、『シュピースのプロシャ日本遠征記』の中に「広々とした日本家屋であった」という記述があるので、いわゆる西洋式建築物としては1868年に落成した「築地ホテル館」が我が国のホテル産業のスタートと位置付けられる。

その後、明治時代に入って、日光金谷ホテル(1873年)、富士屋ホテル(1878年)、帝国ホテル(1890年)が誕生し、現在では老舗ホテルと呼ばれる存在となっている。とはいえ、長らくホテルは政財界のトップや貴族の社交場であり、また、外国人が宿泊する迎賓館的存在であり、すなわちごく一部の人々が利用する場所で、庶民には縁のない存在であった。

我が国のホテル産業が大きく花開くきっかけとなったのは1964年に開催された東京オリンピック、そして70年の大阪万博である。この頃になってようやく一般庶民が頻繁に旅行をするようになり、ホテルも庶民の宿泊先として活用されるようになっていった。銀座東急ホテル(1960年)、パレスホテル(1961年)、ホテルオークラ (1962年)、東京ヒルトン(1963年)、ホテルニューオータニ(1964年)、東京プリンスホテル(1964年)など、多くの有名ホテルがこの当時に誕生した。

その後、右肩上がりの経済成長と共に日本のホテル産業は発展していくわけだが、高度成長期からバブル期にかけて日本のホテルは収益の多くを法人需要に頼ってきたという背景がある。パーティを中心とする“企業が落とす金”がホテルの大きな収益源であった。この時期、国産ホテルの多くは個人客の取り込みに注力しておらず、ホスピタリティの体系化という意味では外資系ホテルに遅れをとることとなった。また、バブル期にかけて建設された国産ホテルの多くは大手ゼネコン、電鉄企業、各種インフラ企業などの子会社として設立されており、純然たる「ホテル経営力」を磨くことで発展してきたホテルは少ない。

このような経緯から、90年代に入って法人需要が激減すると、ホテルオペレーションとホスピタリティを体系的にまとめ、効率的な運営ノウハウと大きな送客網を持つ外資系ホテルに国産ホテルはシェアを奪われていく。ヒルトン、マリオット、ハイアット、スターウッドなどを筆頭に、世界展開しているグローバルホテル企業の多くはその店舗を運営委託方式(マネジメント・コントラクト)によって出店しており、自身でアセット(資産)を持つケースは少ない。テナントとして家賃を払うのではなく、ホテルのプロとして大家から運営を委託されて運営フィーをもらうというビジネスモデルである。

この方式だと少ない投資で世界各地にブランドを展開することができるわけだが、逆に言えば確固たる運営ノウハウとブランドが無ければ大家から認められることはない。このあたりに外資系ホテルがそのホテルオペレーションとホスピタリティを体系的にまとめあげた鍵があったと言えるだろう。

3. 人手不足の中での生産性向上とホスピタリティの両立

「日本人はホスピタリティのレベルが高い」と言われることが多いが、逆に言えばもともと各人のホスピタリティレベルが高く、かつ単一民族国家ゆえの「あ・うん」の呼吸も効いてしまうことから、ホスピタリティを体系化してビジネスの中で昇華させていくということに遅れた感がある。

米国のように多種多様な宗教や文化背景を持った人材が同じ企業の中で働くとなると、事前にルールや風土を細かく設定しておく必要が出てくる。これはホスピタリティにおいても同様で、スタッフ各員が持つホスピタリティ精神を正しい方向で、かつ高いレベルに維持し続けるには周到に考えられた仕組みが必要なのだ。

1997年にザ・リッツ・カールトンが大阪に進出してきた際、日本のホテル産業は彼らの「クレド」に注目した。クレドはホテルの理念を明文化したものである。彼らのホテルマネジメントでは、その理念の浸透方法や、従業員のホスピタリティを花開かせるエンパワーメントについて巧みなロジックが構築されていた。それらの組織として高いレベルのホスピタリティを提供しようとする取り組みには国産ホテルが学ぶべき点が多くあった。

2013年に開かれた国際オリンピック委員会(IOC)によって東京オリンピック・パラリンピック(東京2020大会)の開催が決定して以降、インバウンド需要も目当てとして国内には新規ホテル計画が乱立した。その後コロナ禍を経てもホテルの新規開業は止まらない状況である。訪日外国人は着実に増加し、海外富裕層も日本に流れており宿泊単価はかつてない水準に高騰している。そのような中、日本の宿泊産業は新たな、そして大きな問題に直面している。すなわち空前の人手不足である。

人手不足対策は各産業で進められているが、ホテルでも人を介さないチェックイン、ロボットによるサービスをはじめ、表だけでなく裏の作業でも、あらゆる箇所での効率化が求められている。

少人数体制の中、日本の宿泊産業は生産性向上と高いホスピタリティを両立しなければならない時代に突入した。サービス(狭義)を効率化し、付加価値部分のホスピタリティを手厚くすることで生産性を高めつつも顧客の信頼を獲得していくという好循環を作らなければならないのである。

長きに渡って「おもてなし」の文化を形づくり、個人個人が高いレベルでホスピタリティを体得している日本人である。あとは、組織の中でそのホスピタリティをどう花開かせるかがポイントだ。日本人の高いホスピタリティをビジネスの中で活かすことができれば、世界に冠たるホスピタリティ・コンテンツを作ることができるだろう。宿泊産業はその最前線にあると言ってもよく、常に他産業からベンチマークされる存在であるべきだろう。

執筆者 

久保亮吾

JHMA特任講師
株式会社リクラボ
代表取締役 久保亮吾